表現を条例で取り締まることとゾーニングとの違い


昨日、東京都の青少年条例の改正に関して、石原慎太郎都知事所信表明演説でふれたようです。


INTERNET Watchより
http://internet.watch.impress.co.jp/docs/news/20101201_410660.html

石原慎太郎都知事は所信表明で、「子供たちの目に決して触れさせてはならない漫画が、通常の書籍と並んで店頭に置かれている状況を改善する取り組みにこれ以上の猶予は許されない」などとして、改正の必要性を訴えている。


この問題については、ゾーニング(業界の自主規制による)と条例改正による規制との比較が不可欠なはずですが、
そのことについて触れている報道はほとんどありません。


三月の時点の条例案に関連して開催されたシンポジウムから、
宮台真司教授の発言を引用します。
ゾーニングと条例改正は何が違うのか、的確に指摘しています。


ITmediaより
ゾーニングの顔をした表現規制」「社会の自立の、行政による他殺」<2/2>
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1005/20/news084_2.html

 つまり代替的手段があるにもかかわらず、7条の2(非実在青少年の規定)を加えることの社会的副作用とはなんだろうか。なんといっても運用の恣意性なんですよね。

 さっきの公序良俗問題と区別するために言っておくと、ぼくは国会や裁判所に呼ばれて、刑法175条は廃止しろという議論をずっとしてきています。それは表現規制をやめてゾーニング規制にしろということなんですね。ゾーニングならすべていいわけではなくて、ゾーニングも限定されていないと意味がなくなってしまうんですけれども。
(中略) ただし、複雑な社会ではわいせつ感情を含めて感情の働きが人それぞれ、つまり多様化する。であるがゆえに、幸福追求権に「不意打ちを食らわない権利」を書き込むのが合理的だということになって、先進各国は表現規制からゾーニング規制にだんだんシフトしてきた。日本もシフトするべきだという立論をしてきたわけです。

 構成要件が非常に不明確であるがゆえに、表現規制として機能する7条の2を含む今回の改正案は、市民による検証を阻害する。表現規制による最大の問題は、何が表現規制されたのかが、表現規制によって分からなくなってしまうところにあるんですね。ですから、厳格なゾーニングが一番良いわけです。


また、表現を規制することはどういう意味があるのか、ということに対しても
的確な論を展開しています。

 抽象的な話ですが「現実の枠」より「表現の枠」のほうが大きいのは当たり前ですよね。だからぼくたちは、表現を通じて現実を選べるわけです。従って、現実よりも表現のほうに逸脱が目立つのは当たり前です。それは社会の常態=コモン・ステイトですよね。そして、この「現実の枠」を超えた表現に対して議論するのが社会成員の責務であるわけです。

 ところが「現実の枠」を超えた表現を、行政が封殺しようとしている。これは社会の自立の自殺に当たるわけですね。まあ、他殺ですね、行政による。

 従って、ぶっちゃけて言うとですよ。一般に、いろんな表現が転がっているということは、コミュニケーションを通じて「これどうなんだろうね」って議論をするチャンスであって、そういう議論を通じて自分たちがどういう社会で生き延びて行きたいのか決まっていくわけですよ。そういうチャンスを放っておいて、全部封殺して、社会について何をしようとしているんですか。


今回の条例案はマンガやアニメが主な規制対象として取りあげられていますが、
二番目の引用にあるように、これは表現一般に関わってくる問題です。
なのでライトノベルを執筆する身として、この問題は他人事ではなく注視していきたいと思います、